7月24日(日)に行われた、岡島尚志さん(東京国立近代美術館フィルムセンター主幹)によるトークの概要をご報告します。まず、壇上で持参した35ミリフィルムそのものを会場に向けて見せて始まった内容は、情報としても思想的にも刺激的でした。
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110724岡島_2地上アナログ放送が終わった今日 映画フィルムの魅力について話すには最適な日 
映画フィルムを見たことすらない人が増えていると聞きます。私なんかこれを愛おしいと思います(と35ミリのフィルムそのものを会場に向けて見せる)。映画館でフィルムで見るというのは最も本質的な映画体験であったはずですが、今や、「映画フィルムの魅力」という演題で話すのはなかなか難しいことになりつつあります。

しかし、今日はその話をするのに最適な日ではないかと思います。というのはちょうど2時間前にすべての地上アナログ放送が終わったからです。平成13年に電波法が改正されてから国も産業界も10年をかけて、テレビの地デジ化を進めてきました。ですが、多くの一般の人たちにとっては、なぜ地デジ化が必要なのかがわからない。今朝の朝日新聞に<地デジ化をするとこんなにいいことがある>という特集が出ています。データ放送ができる・マルチ編成ができる・インターネットとの連動ができる・多チャンネル化できる……そして、画質がよくなる。それはいいことかもしれません。ですが、その中の一つ、「画質がよくなる」というのは、結局、芸術のよくわからない人のする議論にも思われます。例えば、貧しい芸術家が安物の絵筆で質の悪い紙に絵を描いたとする――でも、それが偉大な芸術になることもあります。また、芸術家によっては、わざと紙の質を落とすといったこともするでしょう。それから、白黒からカラーになったとします。多くの人がそれはいいことだと言います。今までなかったことですから、確かにいいことかもしれませんが、芸術の議論からすると、色のついたミロのヴィーナスとか、塗り絵で色を施した雪舟の絵なんて考えられない、というのと同じで、色が付いたからと言って“高級”になったとは絶対に言えない。こういう議論を置き去りにして、技術が進み、私たちの文化や芸術の環境を変えていく、ということが起きているわけです。

無声映画からトーキーに移り失ったもの
私が訝っているのは、無声映画からトーキーに移った1920年代後半の時もおそらく同じだったのではないか、ということです。音が付く、それは悪いことではないかもしれませんが、20年後、あるいは30年後――まだ100年は経っていませんが――私たちはとんでもないことをしてしまったのかもしれないと気づくことになるのです。まず何よりも、その変化の中で、不要とされた無声映画をたくさん失ってしまった。そして、今、改めて無声映画を見ると、そこには偉大な芸術性が感じられるわけですから、後悔はとても大きなものになります。でも、もうあとの祭りです。

地デジ化推進の過程で、テレビ放送の画素数が増えることに加えて、双方向になるという利点が強調されましたが、これは二つの支配的な現代思想と結びついています。それはすなわち民主化と環境保護の推進です。インターネットの普及は民主化を進める、双方向通信は直接的に民意を反映できるツールである、地デジ化やそれに伴う新しいテレビモニターの買い換えはエコロジカルであり省エネルギーの観点からも正しい、というわけです。今日の世界で民主主義とエコロジーに反対できる人はほとんどいません。そして私たちは地デジ化を進めることに疑問を持たなくなってしまいました。私はデジタルがいけないとか、地デジ化がよくないとか言っているわけでは決してありません。ただ、無声映画がトーキーに変わったときのように、何かが失われてしまうのではないか、その事を慎重に吟味すべきではないかと申し上げているのです。今日を限りに私たちは何かを失ってしまったのかもしれません。それはわからない。例えば、この10年、アナログという言葉は、古い、時代遅れ、質の悪い、低画質といった意味をまとって使われてきました。それに引き替え、デジタルは、新しい、未来はこちらにある、それは民主主義を支え、環境にもいいなどと言われてきました。でも、デジタルの悪いところ、すなわち私たち映画・映像の保存に関わる者が繰り返し言ってきたこと――たとえば長期保存についての多くの問題点、マイグレーションのコストのことなどはいつも脇に追いやられてきました。また、アナログのいいところ――例えばマシン・リーダブルではなくヒューマン・リーダブルであること等も取り上げられることは少なかったのです。ほんとうはアナログとデジタルの良いところと悪いところ、その4つを正直に比較してから多くの議論をすべきだったのかもしれません。しかし今回の地デジ・シフトも、無声映画の終焉と同様に、私たちのようなフィルム・アーキビストができることをはるかに超えたところで進行していきました。

映画フィルムはアナログの映像媒体の代表
アナログの映像媒体の一番にあるものが映画フィルムです。ここにある(床のフィルムを指して)ニョロニョロとしたものです。標準的には幅が35ミリ、1分間に90フィート進みます。薄さは、実際に測ってみると百数十ミクロンです。測ってみると、映画って三次元のモノなんだなあと実感します。そういうモノの中に非常に多くのデータを蓄えることができるのです。今、“ビッツ・オン・フィルム”という考え方も出てきており、35ミリ・フィルムの中にデジタルデータを、メタデータともども埋め込んで長期保存しようという動きも現れています。これは非常に面白いのですが、本日は時間がありませんので、その話はしません……。

フィルムの美しさ フィルムには特別なものが含まれている
私たちはこの映画フィルムを愛おしく思っています。フィルムの中には、特別なある種の眼に見えないものが含まれているとさえ、半分本気で思っています。時々私たちフィルムアーカイブで仕事をする人々はこんな冗談を言います――「フィルムの中には特別な化学物質が含まれていて、そのケミカルはフィルム・アーキビストたちを含むごく一部の人々にしか知らされていない。この不思議なケミカルは、特に可燃性フィルムに多く含有されており、人を健康にし、長生きさせる」。ほんとうに美しいフィルムというものを実は多くの人は見ていないのではないか、ということを考える必要があります。例えば、デジタル技術を開発する人たちは、ほんとうに美しいフィルムを完璧な映写では見るということをあまりしていないのではないか。例えば京橋のフィルムセンターで上映する場合、私たちは最良のフィルムを作ろうとしますし、完璧な上映を目指します。そしてフィルムの製品評価をきちんとします。現像所にはフィルムの硬軟、濃淡、色調などの焼き度を検定するタイミングという仕事をする人がいます。私たちはこの人たちと協力しながら、美しいフィルムはこうあるべきだという議論を重ねています。ほんとうにいいフィルムをほんとうにきちんとした映写機で、ほんとうにきちんとしたスクリーンに映写した時には――もちろん元が良くなければいけないのですが――まさに腰が抜けるほど美しいのです。劇場の暗さも、スクリーンの輝度も全てが揃った時、映画というものは実に美しいものとして私たちの前に現れます。若干自慢になってしまうのですが、私は1984年にニューヨークの近代美術館でグレタ・ガルボ主演の『ニノチカ』を可燃性フィルムのまま見ました。これほど美しいものはありませんでした。それからヒッチコックの『レベッカ』の可燃性フィルムをワシントンの議会図書館が保管していたものを、2000年にロンドンで見ました。この時は、ロンドンのBFI(英国映画協会)で<ラスト・ナイトレート・ピクチャー・ショー>というイベントが開かれたのですが、これは全世界から普通は上映できない可燃性フィルムを集めてきて特別の上映会が行われたのです。こういうものを見ると、フィルムの美しさに圧倒されます。特に大きなスクリーンで見ると、他のものでは比較できない美しさです。

20世紀半ば前の映画はフィルムで見た方がいい

大まかに言ってテレビというものが世界を席巻するようになった20世紀半ば以前の映画は、フィルムで見た方がいいと思います。仮に<プレTVの時代>とでも言いましょうか、いうまでもなく、無声映画、白黒映画などはその代表的なものと言えるでしょう。しかも大きなスクリーンで見るほうがいいのです。それからテレビ時代になった直後に70ミリ映画に代表される大型映画というものが現われました。お年を召した方は経験があるでしょうが、いまや若い人にはその真正な経験がありません。例えば『アラビアのロレンス』を新宿高島屋で見たとしても、それは私たちの世代が――私は今54歳ですが――小さい時に見た『アラビアのロレンス』の70ミリ版にはほど遠いものなんですね。かつて本物を見た人たちにとっては、『ライアンの娘』にしても『ドクトル・ジバゴ』にしても、にせものにしか見えない。プレTV時代の無声映画や白黒映画、ポストTV以後の大型映画はフィルムで見た方がいい。ただ、今やそれは大変にお金のかかることです。プリントを作るのは高価なことですし、簡単なことではありませんが、どこかで存続するでしょう。例えばノルウェーでは世界中から70ミリフィルムを集めてきて上映する<70ミリ映画祭>というのがあります。劇場や多くのところでなくなったとしてもどこかで存続するでしょうし、皆さんはぜひ見に行くべきでしょう。そして見に行ったらどこかにきちんと書きとめる必要があると思います。『アラビアのロレンス』を見た、と言うだけでは充分ではありません。どこで、いつ、どんな環境で見たかを記しておく必要があります。書きとめる理由の一つはのちのち“自慢”できるからです。もう一つは映画も他の劇場芸術などと同じで一回性のものであるからです。映画は複製芸術だから、いつどこで見ても同じだという考えは単純すぎます。映画をフィルムで見るということは、映画をかけがえのない一回きりの体験として記憶に――あるいは自らの身体に――刻み込むということでもあるのです。
フィルム
  35ミリフィルム


見たものを記録する
立川志の輔という落語家がいます。テレビにもよく出ていますから御存知でしょう。この方の落語は、噺はもちろんですが、枕もとても面白い。こんなことを言っています。アナログとデジタルの違いを御飯で説明するとすれば、「やや大盛りがアナログで、4000粒がデジタルだ」。非常にわかりやすいですね。さらに続けて、「アナログレコードはA面とB面があって、途中でひっくり返さなければならない。面倒くさいから一緒にしたらABがCDになった」。非常にクレバーですし、アナログとデジタルの違いがよくわかる枕だと思いますので、私はこれを“メタデータ”とともにメモします。つまり、内容とともに、<立川志の輔がバンコクで演じた落語『買い物ブギ』の枕で、自分は4月6日にパリへ向かうANA205便のオーディオ番組「全日空寄席」で聞いた>ということをどこかに書いておくわけです。これは皆さん、自慢になります。自慢のためには正確なメタデータがあった方が良いでしょう。それがしっかりしていれば、体験の一回性をより説得力をもって担保できます。ただ「志ん生を聞いた」というよりも「彦六の最後を末廣亭で聞いた」と言った方が良いですし、「2000年に改装したばかりの日生劇場で新之助の出た『海神別荘』を見た」と言えばもっとかっこいいことになりますね。こういうことが落語や演劇だけではなく映画にも言えるようになった……これは大事なことです。

映画との出会いは一期一会 美しいものへの敬意 ありがたみ
近年の映画から思いつくままに拾ってみますと、イーストウッド、キアロスタミ、スコリモフスキといった監督の作品は、フィルムで見た方が圧倒的に大きな感動を得られることに思い至ります。彼らに共通するのは、黒に対する繊細さ、意識的な闇の演出という点です。スコリモフスキの『アンナと過ごした4日間』などはテレビモニターで見るべきではないとさえ言いたくなるフィルム作品ですね。そして、ソクーロフもまた、そうしたフィルムで、映画館で、見るべき作家の代表であろうと思います。<ソクーロフの『モスクワ・エレジー』を2011年7月24日、渋谷のユーロスペースで、フィルムで見た、しかもその日にテレビの地上アナログ放送が終わった>――これはすごいことだと思います。みなさんは、そのメモによって、ソクーロフとその作品を自分の芸術鑑賞の“記憶アーカイブ”の中に完全にとどめることができます。映画というものの一回性、一期一会であることはほんとうにすばらしい。ありていな言葉でいえば、そこには<ありがたみ>というものがあります。みなさんは映画を見るためにここに足を運ばなければならなかった。ジャン=リュック・ゴダールは映画の特性の最終的なものは<運ぶことだ>と言っています。映画というものは運ばなければならない。そしてみなさんも映画館に足を運ばなければならない。それと全く逆にあるのがデジタルです。ユビキタス。いつでもどこでも見られて、暗くなくてもよくて、いろんな制限を取っ払って見られるものなんです。制限の多い映画の方は見るだけでも大変です。何時何分までに劇場に行かなければならない、いろんな仕事をやめて集中しなければならない。そうやって見るからこそ、その映画を<ありがたい>と感じる。ありがたみがあれば、映画という芸術への畏怖が生まれ、近寄りがたい美しさに対する尊敬が生まれるのです。こうした感情はフィルム体験によってしか得られないものでしょう。みなさんはおそらく今日の日本で最も文化的な方々です。なんといっても、ソクーロフがタルコフスキーを描いた映画を、テレビが一斉にデジタルになった日に、ここで、神聖なフィルムによって、見ることができるわけですから。

ありがとうございました。

(上記の文章は、講演採録に基づいて、本人により加筆・修正されています)