7月26日は、ドストエフスキーの翻訳で知られる亀山郁夫さん(東京外国語大学学長)に<『罪と罰』とソクーロフの世界>をテーマにお話しいただきました。ドストエフスキーとソクーロフの世界への深い考察を示唆された貴重な時間でした。
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DSCN1533ソクーロフにはソビエト体制への根本的な批判がある
20年ほど前に初めてソクーロフの作品を見たのがきっかけですが、稀なるロシア人でしょうか、一言でいうと抽象的で薄っぺらになるのですが、反骨精神の旺盛な映画監督でもあり、これまで作ってきた作品の多くがソビエト体制への根本的な批判をはらんでいる。それも表面的ではなくソビエト体制を見ているひとりの哲学者と私は思っています。

これからご覧になる「静かなる一頁」は(ロシア語では複数形なので一頁ではないのですが)、『罪と罰』が原作で、ラスコーリニコフが二人の女性を殺害してから自首して出るまでを幻想的なタッチで描いているのですが、ドラマティックなシーンを期待するかもしれませんが、原作の『罪と罰』では最も平凡で、いくつかのエピソード風に語られるに過ぎない場面を数珠つなぎにしていく。その中で主人公がソフィア・マルメラードワに告白する、そこを一つのクライマックスとしている。皆さん『罪と罰』を読んでいるでしょうから、自分自身の『罪と罰』との対比の中でこの映画をご覧になるでしょう。

ペテルブルクの消滅と終末的な世界観
ペテルブルクは18世紀初頭に建設され300年の歴史を持っています。建設に際しては膨大な犠牲を出しています。ペテルブルクはいつか海に沈んでゆく、消滅するという神話が根強くあって、ある種、世界の終りというイメージを多くの芸術家が描いてきたとするならば、ソクーロフもこの「静かなる一頁」でペテルブルクの消滅を人間の終わりの結果として、終末論的な世界観を描こうとしているのではないか。それは彼の「エルミタージュ幻想」にも共通するペテルブルクの神話にまつわるモチーフだと思います。『罪と罰』をお読みになった方はさまざまな謎めいたディテールを思い浮かべるかもしれません。私も『悪霊』の翻訳をちょうど終えたところなのですが(10月か11月に刊行予定)、このところドストエフスキーに対する見方が変わってきています。

ドストエフスキーは答えを用意しない
私の尊敬する先生、江川卓さんが『謎とき「罪と罰」』という本を書いています。ドストエフスキーの小説世界についての謎解きなのですが、最近、この謎を解くという姿勢そのものが果たして正しいのか、という思いに駆られるようになりました。江川先生は謎解き精神でドストエフスキーに向かっていった。でももしかすると、そういうものを否定したのがドストエフスキーだったのかもしれない、と思うようになったんですね。理由というのは、ドストエフスキーは答えを用意してない、答えを出すのは読者の自己満足にすぎない。むしろ答えを出さないところに、文学の豊かな部分、神秘的な部分を大事にしようと。多くの読者は謎を小説のどこかに置く、つまり鍵を見出そうとするわけですが、ドストエフスキーはむしろ曖昧にぼかして、むしろそれがあるのかないのか、という境界線上に文脈を作り上げる、という印象をもちました。今日は、村上春樹の『アフターダーク』という小説を読みながら来たんですが、小説の中でトロンボーンを演っている青年が、突然トロンボーンをやめて法律家になりたいとなる。法学部の学生ですから、裁判所に通っている中で、すさまじくどす黒く、真実というのは幾重にもあるような力に呑み込まれる経験をして、それがきっかけになる。この『罪と罰』も真実というものがいくつもあるように多重的に作り上げることによって、むしろ答えを消滅させる方向でドストエフスキーは小説を書いていくのかな、と思うのです。ソクーロフの映画を見ると益々その思いを強くします。謎の答えはないんだ、むしろひとりの人間と物質世界との対話しかないんだ、そんな感覚を見る人の心にもたらす、というか・・。私自身もこの映画が好きで何度も見ているのですが、人間と世界、とりわけラスコーリニコフのように、二人の女性を殺してしまった後、極限の、言葉は旧いのですが、実存的な状況にいるわけですよね。ですから見る人もただ漫然と画面の中に自分を投影するのではなく、もし、できれば自分自身が何か罪を犯しているという、その罪の記憶の中で、ラスコーリニコフが今背負っている苦しみの深さを自分自身の中に思い浮かべながら、どんなふうに物質世界が迫ってくるか。対話を経験していただければ、と思います。

すさまじい荒廃の中ですさまじい人間の荒廃が現れるDSCN1540
この映像の中に描かれるペテルブルクの町を私は見たことがないのですが、恐らくソクーロフはペテルブルクの町を隈なく歩き回ってその場面を探してきたのでしょう。『罪と罰』の舞台は1866年ですから、町ができて150年。あの町は大理石と石と木でできた町です。建設されて150年経過するとどんな町になるかを、思い浮かべてほしいんです。今日、ユーロスペースのこの立派な建物に入ってきて、建てられてから何年ですか、と思わず聞いたら、5年ですって。150年後のユーロスペースがどんな形をしているか。ペテルブルクのように、ピョートル大帝がすさまじい人力と財力を傾注して造った町であっても、150年を経るとすさまじい荒廃をみせるわけです。そのすさまじい都市の荒廃の中で、すさまじい人間の荒廃が現出するわけです。それをラスコーリニコフという一人の青年がじーっと見ているわけです。ラスコーリニコフをソクーロフが背中から撮る場面と正面から撮る場面とあります。背中から見ているときにはペテルブルクの沈黙の世界、世界の終りの世界として経験し、ラスコーリニコフにイエス・キリストのような聖なる輝きを見るわけですが、正面から主人公を見ると、生々しいひとりの人間としての苦しみが浮かびあがってきて、二重の罪を犯したイエス・キリストとでも言いましょうか、この終末的な混沌にみちた世界を見るひとりのエリートと、イエス・キリストのある種の像と重ね合わせて経験できるかな、と思います。

際立つソーニャの存在感
また、私の一番鮮明に残っているのはソーニャ・マルメラードワという女性です。これまでに何種類かの『罪と罰』の映画があります。ソ連時代の白黒の作品の俳優比べると、若干甘さを残したラスコーリニコフではあるのですが。今回、際立っているのはソーニャのキャスティングかな、と思っています。ロシア語の発っし方のある種異様さ、とでも言いましょうか、霊性、人間の霊というものを伝える発音、と言いましょうか、語り方というか身振りといいましょうか。一つひとつが神がかっているんですね。彼女の存在感が際立っている。江川卓さんのことに話を戻すと、新潮社から出ている『謎解き『罪と罰』』という解説書の中では、ラスコーリニコフとソーニャ・マルメラードワとの間には何らかの関係があった、という解釈を施しているんですね。江川卓さんの解釈が、果たして真っ当かどうかというのを、映像を通してみて見るのもよいかもしれない。ソクーロフの見るラスコーリニコフとソーニャ、二人の男女の関係の本質はどんなものか。いわゆる愛とか恋とか、もっともっと深い魂のつながりとか。ことによるとラスコーリニコフは単に暴力的にソーニャ・マルメラードワを見ているのか。いろんな思いと、皆さんが実際に読書して得たことと映画との落差を図るのもいいのではないか、と思います。

「セカンド・サークル」ロシア人心の中にある復活
「静かなる一頁」は1990年代の半ばに作られたのですが、「セカンド・サークル」「ストーン」とで三部作になっていて、「静かなる一頁」は最後の三作目になります。私は「セカンド・サークル」が、ひときわ好きなのです。非常に難しい映画だと思うですが。ロシアの人々の心の中にある<復活>という思い、人間が甦る、ということに対する物質的想像力というのでしょうか、キリスト教精神の奥義を単に復活という言葉でとらえるのなら、復活というビジョンが描き込まれていて、素晴らしい深さを持った映画であると思います。その一連の流れ。復活というテーマを巡っての三部作。「静かなる一頁」も復活というテーマがどんなふうに映像化されているか、とりわけ ラストシーンに注目していただけるといい、と思います。ラスコーリニコフという男は最後まで自分の罪の意味に気付いていないし、傲岸で、傲慢な男であるわけですが、自分の罪の正当化を最後まで続けている男です。そのような男に救いの道があるのか。罪の重さ、それからの復活というテーマをそれぞれに探っていただけるといい、と思います。